八月も終わろうとしていた。
由香里と出会って桐野剛一は毎日が輝きを取り戻したかのようだった。
遠くに置いてきた青春という季節を、今一度生きているいるかのような感覚だった。
単にセックスが満たされているだけではない。
ともあれ、桐野剛一は、外から見ても若返ったかのようだった。
「局長、最近、肌の艶が良いですね」
広告代理店の結城が宣伝会議の後、エレベータ―の中で言った。
「そうかな」
「何かジムでも通い始めたんですか?」
「特にそうしている訳でもないんだが」
「ところで、今度のゴルフ、いつにしましょうか?」
結城の代理店には年間数十億単位の広告宣伝費を任せている。そのため、月一回程度ゴルフに接待されているのだ。
「今回はやめておこう。野暮用があるんで」
「前回も中止しましたよね」
「そう言えばそうだな」
「何かあったんですか?だって、ゴルフ好きの局長が二回もキャンセルするなんて」
「ほんと、何にもないよ」
エレベーターが一階に着いた。
「そうですか、じゃ、いつでも声をかけて下さい。今日はここで失礼します。」
結城と軽い挨拶を交わして、ロビーで別れた。
会議が長引き、すでに午後三時を回っていた。
ロビーの奥のオープンカフェで北沢が待っていた。
私立探偵である。
「お待たせしました」
剛一はそう言って北沢の前の椅子に座った。
「どうでした?」剛一が訊いた。
「これを見てください」
北沢は十数枚の写真を剛一に見せた。
そこには由香里が、若い男と楽しそうに夕暮れの街を歩いている姿が写っていた。
ジーンズ姿で、愛人というイメージとはかけ離れたカジュアルなファッションである。
由香里は初めてであったときの、あのスケッチブックを小脇に抱えていた。
相手は、こざっぱりとしたイケメンの部類に入る若い男だ。
由香里と同じか、もしかすると少し年下のようにも見えた。
ファミリーレストランで食事をする二人。
軽乗用車の助手席に乗り込む由香里。
運転席に座っている男。
車は何の変哲もない、軽乗用車の白色のワンボックスカーである。
しばらく走って、小さなマンションの駐車場で停車する軽乗用車。
車から出てマンションの中に消えてゆく二人。
マンションの三階のある部屋に入っていく二人。
表札がクローズアップされていて「若宮」という文字が読み取れる。
剛一が気になったのは由香里の笑顔だった。
彼には見せたことのない屈託のない笑顔だった。
幼い無防備な笑顔と言っても良かった。
全ての見栄や計算が取り払われた笑顔。
満面の笑顔。
幼くさえ見える笑顔。
ショートカットの下の少年のような笑顔だった。
剛一が知っている由香里はそれに比べるといつも勝負している笑顔だった。
人を見据える瞳。
世界のすべてが敵だと思わせる強い瞳。
薄く微笑む唇。
そして無意識だろう、男を限りなく誘惑する艶めいた笑顔。
剛一はそんな笑顔がたまらなく愛おしいのだ。
しかし写真を見ている剛一に強い嫉妬心が頭をもたげて来た。
由香里は俺には心を開いていないのか?
なぜ、俺にはその屈託のない笑顔を見せないのか?
そんな疑問が黒々とせりあがって来るのだった。
剛一はその黒いせり上がりを抑え込んで、自分に言い聞かせた。
愛人契約を結んだ時、互いに互いのプライバシーには踏み込まない、と約束したはずだ。
だから、由香里が誰と何をしようと構わないのだ。
本当は、こうして北沢に由香里の素行調査を依頼すること自体が約束違反なのだ。
由香里の本名は何というのか?
どこに住んでいるのか?
親兄弟の様子はどうか?
友人たちはどうか?
何をして生計を立てているのか?
全ては未知だった。
互いに知っているのは電話番号だけだった。
約束を侵してでも、剛一は、最低限の情報を知りたかった。
本名、住所、年齢
それだけでよかった。
しかし北沢がもたらしたのは恋人が存在するという、知りたくもない情報だった。
当たり前だが、自分が由香里を独占している訳ではないと言い聞かせていたのだが、その事実を突きつけられるとやはり心が揺れた。
今まで味わっていた「至福」感はその土台から揺らぎ始めたのだ。
北沢がもたらした情報は貴重だった。
由香里の住所を突き止めていた。
一人暮らし。
蒼井由香里、自分が知っている名前は本名だった。
美大油絵学科卒。
現在、フリーのイラストレートして、小さなデザイン事務所等から注文を受け、収入を得ている。
添えられた写真は、古びたアパートの窓から覗かれる由香里の姿だった。
望遠で撮って拡大しているめ、画像が粗い。
キャンバスに向かっている後ろ姿。
ショートカットの後頭部。
タンクトップから覗く裸の肩。
剛一が愛してやまないくびれた腰。
絵の具が飛び散ったようなジーンズ。
ここからは、何を描いているのかは判然としない。
「住居というよりアトリエ、ぼろアトリエっていう感じでしたね」
北沢が軽く付け足した。
「ありがとう。とりあえずこれで十分です」
「そうですか。後日請求書をお送りします。」
剛一の脳裏には恋人らしい若い男の存在と、由香里のアトリエの風景、そしてその所在地が刻み込まれた。