ブルドッグは小雨で暗い杉の林の中をゆっくりとレクサスを走らせた。
ドローンに見つかるのを用心してだった。密海寺は既に視界から消えていた。
俺と凜は時折窓から首を出して暗い空を見渡した。夥しい雲がゆっくりと流れていた。
ドローンはいなかった。
「阿闍梨\アジャリ」
と俺はブルドッグに呼びかけた。
「社長と呼んでくれ」
「じゃ、社長、少し聞きたいことがある」
「何だ?」
「社長と密海寺について知りたい」
「私も訊きたいわ」
隣の凜が言った。
「私も」
助手席の蘭も言った。
「よろしおま」
そう言ってブルドッグは、俺たちに分かりやすく概要をかいつまんで話してくれた。
密海寺は、高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗に属する。
空海が開いた真言宗の流れに沿った密教系のまっとうな寺である。大日経や金剛頂経、等を根本経典としている。宗教界、や一般社会が公認し信仰する世界である。
ただし、密海寺は表とは別の裏の世界を持っている。
裏の教えは、密教の中でも更に秘密の教えの世界である。
性交で得られるオーガズムの絶頂で、大日如来と一体化することが出来る、という教えである。
これは古代インドのヒンズー教のタントラの教えを源流とし密教に取り入れられた考え方である。
この教えに更に、日本の陰陽道の考えを取り入れ、そのオーガズムによる解脱を前面に押し出したのが真言立川流である。平安末期に興った真言宗の流派である。
しかし、真言立川流は邪教とみなされ、大弾圧を受け、およそ百年後の南北朝時代に壊滅した。
密海寺は、微かに生き残った真言立川流のエッセンスを受け継ぎ、裏の教えとして実践している。
また、性交の相手は異性とは限っていない。男女、女女、男男でもよい。また。相手は一人でも複数でもよいとしている。
だから、昨夜のような破邪食のような儀式は、特定の信者たちにのみ公開され実践されている。
ブルドッグつまり辻端社長は高野山大学で学び僧侶の資格を得た。
ただ、すぐに僧職に就くのではなく、長年、一般企業に身を置いた。働く傍ら密教を中心として哲学や歴史を学び、生物学まで独自で勉強していた。
十年ほど前、或る大手建設会社の総務課でメンタルアドバイザーとして働いていた頃だった。
寺をリフォームするという案件が持ち上がり、高野山大学出身ということで、プロジェクトのメンバーに組み入れられた。
リフォームを依頼して来たのが密海寺だった。
初めて会った先代の阿闍梨は、完璧に頭を剃り上げ、白い髭を生やし、痩せて贅肉はなく、見るからに行者といった風情だった。
リフォームのプロジェクトが進行する内に、ブルドッグは、高野山大学出身ということで興味を持たれ、それを機会に内密に真言立川流を教えてもらった。ブルドッグは理解と覚えが速く、先代阿闍梨に非常に可愛がられた。
「その醜いブルドッグ顔が秘教に合う」と揶揄されたが、しかし、それは破邪を説く密海寺の根本の教えと照応するものでもあり、先代阿闍梨はそう言う意味でもブルドッグを可愛がった。
先代阿闍梨の妻は若くして癌でなくなっていた。その妻との間に一人娘、二十七歳の桜子がいた。
桜子は繊細な女性で、文学と音楽を愛した。
ブルドッグは文学の憧憬にも深く、ましてや密教の奥義やエロティックなタントラの性愛にも詳しいとあって、桜子の心をたちまち鷲掴みにした。
大がかりなリ寺のフォームが進行している間に、桜子のブルドッグへの興味と関心は熱い恋情となった。
しかし、ブルドッグは桜子に一度も触れてはいず手も握ってはいなかった。歯がゆさを感じた先代阿闍梨は
遂に桜子を娶るよう、ブルドッグに懇願した。
結果、ブルドッグと桜子は結婚することになった。
ブルドッグが四十七歳、桜子二十七歳。年の差二十歳だった。
寺のリフォームが二年がかりで完成した。
完成を待たず、先代阿闍梨は妻と同じく癌で死んだ。
遺言に従ってブルドッグが住職の座を受け継いだ。
ブルドッグと桜子の間に子供は出来ないまま、五年程が過ぎ、桜子がやはり癌で死んだ。
その後、ブルドッグは密海寺の教義に真言立川流の一部を組み込み、寺の講堂などの改造を行って今の形にした。
ブルドッグはサラリーマン時代に知り合った建築会社や土木建設会社関係の人脈を伝って、大中企業の社長や富裕層の裏の信者を獲得していった。
ブルドッグが想像する以上に性に悩む人間は多かった。彼らは、密海寺の破邪食の行に招待されると、性と肉と心が癒され、未来が開かれ、人生に希望が湧き、ほとんど全員が信者になった。
多少高い檀家費用や儀式参加料等は、彼らにしたら安いものだった。
「というのが、密海寺と俺との関係ですわ」ブルドッグが説明を終わった後に言った。
「AV会社もタントラの延長?」
凜が訊いた。
「ハハハ、それはそれ。エロはもうかりますわ」
ブルドッグが愉快そうに笑って答えた。