愛人契約

愛人契約65.私は私としてゲイで生きていく。白人の男は決意する。r

2021/04/26

今日の空は九月の爽やかな光に満ちていた。
東京駅駅舎が遠くに見える。

「お前、どんな手を使ったんだ」
桐野剛一に畑中慎一郎が言った。財務戦略担当の副社長である。同期入社で切れ者である。
ビルの最上階のラウンジでコーヒーを飲みながら言った。

「大した手ではなかった。沖縄で交渉がてら少し接待しただけだ」剛一が言った。
「それにしても急展開だな。相手はうちの株の買い占めを中止すると、いきなり発表したんだ」
畑中の手元には経済新聞が置かれ、一面トップに、財務担当役員のルーカスが、投資ファンド会社を辞任する見出しが大きく出ていた。
辞任の理由は健康上の問題とだけ書かれていて詳しくは触れていなかった。
ルーカスの辞任に伴って、剛一の属する帝国電器産業の子会社、WWITの敵対的買収は中止すると報じられていた。
社内では驚きと共に、剛一を讃える声が満ちた。
絶対優勢な相手の攻撃に、剛一が逆転劇を演じて見せたのだった。

しかし、剛一はルーカスに敗北感を感じていた。
コーヒーがほろ苦く感じられた。
沖縄から帰って九月に入って半月程の日が過ぎた。
一昨日ルーカスから電話が入った。

「キリノ、買収は中止する。そして私は会社を辞める」
「何だと」
予期せぬ内容に、剛一は思わず電話口で大声を出した。
「だからあなたへの毎年の一千万ドルの支払いは必要がなくなった」

その一千万ドルとは、ルーカスと猛のゲイプレイを盗撮したもので、一種の口止め料に近いものだった。
剛一のルーカスへオファーは次のようなものだった。
WITへの敵対的株の買い占めはどんどん進める。
ルーカスには社内で評価を高め権力を強化して欲しい。
剛一の身分は現在の帝国電器産業の役員のままでいい。
あるいは、降格でもいい。
ただし、毎年一千万ドルを剛一の指定する金融機関に振り込む。
そのオファーをルーカスは呑んだはずだった。
剛一の目論見は一瞬にして崩れ去った。

「何があったんだ」剛一が訊いた。

ルーカスは次のような事を言った。
ルーカスは、自分がゲイであることを社内の役員にカミングアウトした。
そして、辞表を出した。
彼がいなくなったら、今回の買収作戦を指揮できるものはいない。
買収作戦は自ずから中止となる。

「キリノ、あなたに感謝している」
「どういう事だ」

ルーカスは語った。
ルーカスはずっと自分がゲイであることを隠してきた。
彼が所属するエスタブリッシュな世界は、ゲイは侮蔑と嫌悪の対象だ。
当然その世界からは排除される。彼はずっと自分を偽ってきた。
その代償として今の地位とを得た。

「しかし」とルーカスは続けた。
猛と会って、ルーカスはしたたかに、徹底して、自分の本質がゲイであることを知った。
このゲイであることを隠し通すか、自分のアイデンティティを得るのか、真剣に悩んだ。
ゲイであることが知られると、彼は今の会社の地位と名誉を失う。
エスタブリッシュな世界からも排除される。
下手したら、家族も失う。
しかし、自分に嘘をつき続けることで、彼は彼を失う。
それは死と同じだ。

猛とのゲイセックスはルーカスにこう呼びかけた。
死ぬな、
生きろ、と。

剛一は黙ってルーカスの話を聴いていた。
ルーカスの声には熱がこもっていた。
それは未来への熱のようなものだった。

「これからどうするのだ」剛一が訊いた。
「今は分からない。アメリカは広く深い。どこかで私は私らしく生きていくよ。」
「そうか」
「剛一、あなたは優秀な男だ。それにセクシーだ。健闘を祈る。由香里もいい女だ」
「サンキュー」
「グッバイ」
電話を切ったとき、あの沖縄の夏の黄金の朝の浜辺を、潮風に吹かれて歩いているルーカスの姿が、浮かんでそして消えて行った。

「桐野、いよいよ社長への階段が近づいて来たな」
畑中がニヤリと笑って剛一を見た。
その眼にはライバルに向ける挑むような光があった。