スマホが鳴った。
桐野剛一は執務室で資料に目を通していた所だった。
電話に出ると、ハニートラッパーの凛だった。
九月に入ってすぐだった。
椎名が潜水艦を手配してからちょうど七日目だった。
「キリノさん。ありがとうございました。もうすぐ白浜の漁港です。」
「無事着けそうだね」
「そう思います。潜水艦に乗ったら、暫くは連絡ができません。お礼を言いたくて電話しました。」
「ありがとう。敵は巻けたか」
「誰かさんのメンバーがうまく阻止してくれました」
凜が知らない誰かさんとは、雁屋遼介のことだった。
「怪我は?」
「松岡さんが転んで膝を擦り剥きました」
「大怪我だな。命は大丈夫か」剛一が大げさに言った。
すると電話の向こうで凜が子供のようにキャキャキャと笑う声が聞こえた。
執務室から見渡す都心の空は厚い雲に覆われていた。関西ではすでに雨が降っていると、天気予報は告げていた。
「漁船は来たか?」
予定では、味方の漁船に乗って、沖で待機している潜水艦に向かうことになっている。
そして最終的には凜はフランスへ行くことになっていた。
「まだです。今、車の中で待機している最中です。でも雨が激しくなってきました。」
「大丈夫だろう」
「そう思います」
すると今度は男の声に代わった。
「松岡です」
行きがかり上、凜の逃走を助けることになったタクシー運転手の松岡だった。
四十代半ばの、鬱積した日々を送っている男だった。
松岡は今回の凜の逃走支援で、職場とマンションを失うことになった。
凜と逃走しながら、松岡は新たな人生の感触に驚き、そして感激さえしていた。
「キリノさん。俺には怖かったぜ。何回死ぬかと思った。」松岡が楽しそうに言った。
「でも大丈夫だったでしょう」
剛一は微笑しながら答えた。
「凜はすごい!あんな華奢な身体で大の男をぶん投げてやっつけるんだから」
「あなたも凜に殴られたかい」
「二度ほどね」
剛一は大笑いした。
「でもいい体験だった。凜の人生も凄いと思った。それに比べると俺の人生なんか、うじうじしていて、詰まらんものだよ。」
「違うよ、松岡さん、人には人のそれぞれのドラマがある」
「ありがとうよ。俺は日本に残りますが、これでお別れですね。」松岡が言った。
「約束通り、生活再建のための五百万円はすぐ振り込みます。そして、もし、何か助けが必要になたら、連絡ください。何か役に立つと思います。凜が三十二桁の私の電話の暗号を知っている。忘れたら、二度と連絡できなくなるがね。」
凜が代わった。
「漁船が見えました。桟橋は雨で煙っていますが間違いないようです。いよいよお別れです」
「そうか」
「どこかでお会い出来たらうれしいです」
「そうだね。いつか会えるかもしれない。」
「では電話を切ります。」
そしてスマホは無言になった。
凜は一切の通信履歴を破棄するため、今使っていた松岡のスマホを海に投げ捨てるだろう。