愛人契約

愛人契約03.逃げてきた女、男を買いたいと言うr

2021/04/26

八月の夜の都会は湿度が高く不快にざわめいていた。
桐野剛一は一日の疲れが全身に淀んでいた。
道路の左側はバーや高級クラブ、キャパクラが犇めく一大歓楽街だった。

剛一は重い眠気をさっきから感じており、スピードを落とし慎重にハンドルを握っていた。
信号が赤に変わり、アイドリングしながら、横断歩道を行き交う華やぐ人の群れをぼんやりと眺めていた。

すると突然、助手席の窓を激しくノックする音が聞こえた。
そこには見知らぬ女が必死で何かを叫んでいた。
剛一は何事かと思って、わずかに窓ガラスを下した。
「お願い。乗せて。助けて、追われてるの」
「??」
「お願い、本当に、お願いです。」
必死で叫ぶ女の向こう側から、黒背広の数人の男たちが走って来るのが見えた。
「お願いです、早く、お願い」
叫ぶ女の目に涙が浮かんでいた。

剛一は深い考えもなく、助手席のドアを少し開けた。
女は開いたドアを勢いよく広げ、どっと助手席に飛び込み
「早く出して!!」と叫んだ。
ちょうど信号が青に変わったところだった。
そこへ先ほどの男たちが追い付き、激しく窓を叩いた。
剛一は反射的にアクセルを踏み込み車を発進させた。

男たちが車を追いかけて来た。車は彼らをどんどん引き離していった。そして剛一は交差点を突っ切り右折し、男たちの影を視界から完全に消し去った。
暫く車を走らせ歓楽街の外れまで来た辺りで、剛一は車を歩道に寄せて止めた。

「本当にごめなさい」と、女が先に謝った。

女の顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。赤い唇がネオンの下で歪んでおり、今にも大声で泣きそうに、わらわら震えていた。
剛一は"どうしたの"と声をかけようとしたが、女は激しく胸を上下させ、前方を見つめてただ固く自分を閉ざし、周囲を拒否していた。
彼からは横顔しか見えなかったが、前方を見据える目からは涙が流れていた。何かを決意したように、女が顔を向けて行った。

「あなたを買わせて!!」
「え?」剛一は思わず聞き返した。
「あなたを買いたいの」
剛一には何の事か理解できなかった。