私は十号。超高級娼婦。青髭の館。

私は十号 08.醜く崩れゆく桜子

ブルドッグは十号から身を離し、ベッドの上に座った。
巨体の背中が泣いているようだ。
十号も身を起こし、背中にさりげなく顔を寄せる。

「どうしたのブルドッグさん」
「ビールが欲しい」
「分かりました」

十号は立ち上がり、ガウンを身にまとい、隣のダイニングスペースの奥のミニバーから、小さな移動式ワゴンに、冷えたビールとコップを二つ乗せて来た。
ベランダの向こうは午後のけだるい空が都会の上に広がっている。

ブルドッグは出されたビールを餓えた犬のように、がぶがぶ飲み下す。
十号もそれに倣って、がぶがぶ飲み下す。
清涼な苦みと泡が喉を潤す。

ビールを飲み下した後、ブルドッグは大きな溜息を、深々とつく。
ブルドッグの脳裏で様々な思いが果てしなくめぐり始める。
そしてとつとつと十号に語る。

*

今、桜子が現れた。
夢の中ではなく、今度は、十号、君の中から現れた。
夢の中で俺は貪るように桜子を抱く。
俺が絶頂に向かい、桜子が絶頂に向かおうとするとき、必ず桜子は懇願する。

やめて、
ありがとう、
もういいわ、
やめて―――
と。

桜子はまだ成仏していないのか?
その都度俺はそんな思いに駆られる。
いや、俺が妄執を断ち切れていないだけだ。
桜子は俺の妄執だ!
そう自分に言い聞かす。

曲がりになりにも俺は僧侶だ、今では阿闍梨の称号まで得ている身だ、
成仏とは一つの方便であり、それこそ生者のための、安らぎへの方便だ。
仏教では一切皆空、つまり、すべて存在するものは実体を持たない、と説く。
愛もまた空である。愛は渇望であり執着であり、迷妄に過ぎない。そのことは嫌と言うほど分かっている。
ところが、今、君の中に桜子がまるで実体のように現れた。
桜子は十号という君を通して実体化した。
実体化させたのは、俺の中の執着だ。
しかし、君の体を借りて現れた桜子は、まさに柔らかで手応えのある、肉体を持った実体だ。

*

「ややこしいのね」
十号が口をはさむ。
「そうだ、ややこしい。空と色はややこしい」
ブルドッグが答える。
十号は、ブルドッグと自分のコップにビールを注ぐ。
ブルドッグは、肩を落としたまま、再びぐいと一気に飲み干す。
十号もぐいと一気に飲み干す。

*

 俺は真言宗直属の仏教大学で学び僧侶の資格を得た。
 ただ、すぐに僧職には就かず、長年、大手商社に身を置いた。世に棲むことが最上の修行と考えたからだ。
 働く傍ら更に密教を深め、他に哲学や歴史、そして生物学まで独自で勉強した。
 その後、いろいろな曲折の後、縁があって密海寺の僧となった。
 先代の阿闍梨が癌で無くなり住職の座を引き継いだ。そこに、一人娘の桜子がいた。二十二歳だった。

 桜子は繊細な女性で、文学と音楽を愛した。
 ブルドッグは文学の憧憬にも深く、ましてや密教の奥義やエロティックなタントラの性愛にも詳しいとあって、桜子の心をたちまち鷲掴みにした。
 三年後、俺と桜子は結婚した。俺が三十歳、桜子二十五歳だった。
  
 大きな黒い瞳
 妖艶な目尻。
 甘く輝く薄紅色の唇。
 頬から顎、首すじにかけてのシャープな線。
 優しく知的で、すべてを許すような笑顔。
 コロコロと軽やかに響く笑い声。
 俺は、桜子の心と体をこよなく愛した。

 俺は桜の子のためにも、密海寺の運営と興隆に日々駆け回った。
 従来とは違った法話の催事やを取り入れ、インターネットやsnsも駆使し、密教系の新しい情報発信を行い、新しい信者を増やした。
 先に努めた会社の経験も大いに役に立った。その時知り合った中小企業の社長や、知人などに密海寺の催事や情報を発信し、少なからぬ寄付金が集まり、信者も増えた。

 桜子も、煩瑣な社務や来訪者の応対で夫を助けた。 
 桜子は剃髪はせず、法衣も着けず、一般女性の姿で甲斐甲斐しく動き回った。
 その姿が、信者や、出入のりする業者たちの人気を集めた。
 まさに、二人三脚の薔薇色の日々だった。
 
 そんな桜子に突然異変が起こった。
 急性白血病の発症だった。
 桜子二十七歳の時だ。

*

ブルドッグは次に焼酎の水割りを注文した。癖のある沖縄の古酒(くーす)だった。
十号は今度は古酒と氷を持ってきてミニワゴンの上にセットした。
十号は二つのコップに古酒を注ぎ、水を足し、氷を浮かべた。
一つをブルドッグに勧め、もう一つは自分が手にした。
ベランダの彼方の空はまだまだ陽が高く、その下で都会のビル群が鵜だっていた。
古酒を一口飲んで、ブルドッグが言った。
「十号、君に酔いたい」
「私も。お話を続けて」

*

ある時、桜子が夏風邪をひいた。
単なる風邪だろうと思い、一週間ほど放っておいた。
ところが、いつまで経っても咳がが治まらない。熱も下がらない。
ひどい倦怠感に襲われ、ベッドの中で呻き声をげ始めた。
動悸が激しく、目眩に襲われるようになった。
顔を近づけると、今までに無い口臭がした。
腐った卵、腐った玉葱のような匂いだった。
慌てて医者に連れて行った。

急性白血病が疑われた。そこから地域の総合治療センターを紹介され、即入院となった。
「もっと早く来るべきでしたね」
担当医が言った。
そして、抗がん剤治療が始まった。

俺は一方で、密海寺の本堂で加持祈祷を行た。
手に印契を結び鈷を用いて、護摩をたき、真言(マントラ)を口唱して仏の加護を求めた。

しかし、桜子の病状は進行する一方だった。
髪は抜け、頬はこけ、痩せ細っていった。
更に悲劇が襲った。
免疫力が極端に落ちていた体に、今度は皮膚癌が発生したのだ。

首回りで肥大したリンパ腫に加え、美しかった伸びやかな首筋に異様異形の潰れた肉が現れた。
それが無数の泡となって群れ、盛り上がった。
不気味な癌の群れはやがて、美しい乳房へ、脇腹へと広がった。桜子が異様な生き物に侵され喰われて行った。

入院して3ヶ月ほどたったある日、個室で、医師と看護師の同席の元、眠っている桜子と対面していた。
抗癌剤治療で疲弊しているのか、口元はだらしなく半開きで、目が薄く開いている。そして、自分の今を恨むかのように、眉間に苦し気な縦皺を刻んでいる。
皮膚は枯れ、顔色は土色に変色し、頬はこけ、唇は紫色。
死相だった。

「今の間に、妻の体を見ておきたい」
という俺の懇願に答えてくれて、看護師がパジャマの前を開け、体に張り付いていたガーゼなどを剝がした。
ガーゼは死の匂いがした。不気味でおぞましい血が滲んでいる。

オオオ

桜子の変わり果てた姿を見て俺は思わず声を上げた。
左の乳房は肉の泥沼に犯され、肉の泡に溶けて沈んでいる。
右の乳房は、かろうじて乳房の上半球が生き残り、まだ犯されていない美しい盛り上がりと輝きを見せている。やはり、瑞々しさを残した淡い薄紅色の乳首が助けを求めて空を仰いでいる。
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