蘭が拉致された時、レクサスの給油はまだ続いていた。ブルドッグが給油ノズルを引き抜こうとした。
しかし、赤いセダンのスピードは速く、瞬く間に、道路の彼方に消えた。
ブルドッグは給油ノズルを引き抜くのをやめ、茫然と道路の先を見詰めるだけだった。
スポーツタイプの赤いセダンのスピードは速く、リムで走るレクサスや、中低速のジープで追うには到底無理だった。
コンクリートから起き上がると、巨体のブルドッグと緑川の背中が、荒い呼吸のせいで上下しているのが見えた。
俺のズボンは避け、膝には強烈な痛みと共に、血が溢れ出していた。
俺たちの側へ凜と彩夏が走って来た。
「らーん!!」
大声で凜が虚しく叫んだ。
ブルドッグの顔が、怒りと悔しさに歪んでいた。
「松岡さん、スマホ貸して」凜が言った。
スマホを受け取ると凜は三十六桁の長い番号を押した。相手が出た。漏れ聞こえる声から桐野だと分かった。
「桐野さん?奴らに蘭が拉致された!!」
凜の声が上ずっていた。
「救出する方法は何かありますか?そちらに何か情報は有りますか?」
凜は落ち着きのない早口で言った。
「落ち着いて、凜ちゃん。彼らの目的は何だと思う?」桐野が言った。
「きっと、私たちが奪ったセルの入手だとおもう」
「そうだとすると、彼らは蘭ちゃんの命を無意味に危険に曝す事はしない筈だ。蘭ちゃんと引き換えに、セルを要求して来る筈だ」
桐野がゆっくりと凜を諭すように言った。
「そうね、そうですね」
そう答える凜の声に落ち着きが戻って来た。
桐野が続けた。
「彼らがセルを入手するためには、凜ちゃんと交渉せざるを得ない。彼らは必ずどこかで、あなた達の前に姿を現すはずだ。その時が、蘭ちゃんを救出する時でもある。彼らも全力であなた達を追う筈だ。だから予定通り漁港を目指しなさい」
「分かりました」
凜が覚悟を決めたような目つきで、車の去った後を見ながら決然と言った。
「とにかく漁港へ行く!」
凜が、給油が終わるのを待つ間に水道水で俺の膝の傷口を洗ってくれた。彩夏がジープのトランクの救急箱から包帯を取り出し、きつく縛った。
レクサスとジープの給油がやっと終わった。時刻は十四時少しを回っていた。
ブルドッグが急いで運転席に乗り込んだ。俺も続いて助手席に飛び乗った。凜が後座席に飛び込むのを確認すると、ブルドッグは即座にアクセルを踏んだ。レクサスのガタガタと言う走りが再び始まった。ジープが後ろから付いてきた。
時速五十キロ程度のレクサスの走りはもどかしかった。
しかし、それは仕方がなかった。下手に走るとリムが破壊し、それこそ走行不可能な状態に陥るのだ。
俺たちは半ばいらいらしながら三七一号線を南へと下った。
俺は後座席の凜を振り向いて見てみた。
凜は窓の外の流れる風景に視線を投げかけていて、奴らがどこからか現れて、交渉を持ち掛けてくるのではないかと、半ば期待して待っている様子だった。
車はやがて、田辺市の市街地を走っていて、国道三七一号線は終り、道は国道四二号線に接続する形になった。カーナビでは、目的の漁港はそこを左折して少し走った所に位置していた。
左手に雨の海が見え隠れし始めた。紀伊半島に打ち寄せる太平洋である。海と空は濃い灰色で、沖の水平線は見えなかった。
しかし、今、その暗い海の中を潜水艦が深く潜行して、予定通り、目的の漁港の沖へと近づいているはずである。
前方を見詰めて運転していたブルドッグが叫んだ。
「前方に漁港の看板が見えるぞ」
「そうね、小湊漁港って書いてあるわ」
後座席から身を乗り出して凜が言った。
俺は振り向きざま、凜の唇に軽く接吻した。凜が驚いたような目で俺を見た。知的で美しい、ボーイッシュな凜が堪らなく愛おしくなった。
「もうすぐお別れね」
凜が俺に微笑んで言った。
ブルドッグはスピードを落とし、殺風景な漁港の船着き場にレクサスを乗り入れた。
漁港内の小さな建物群は扉を閉ざして鎮まってた。人影も無かった。今日の業務はもう終ったのだろう。
雨に煙る漁港の船着き場に、凜達を待つ漁船の姿は未だ無く、遠くの突き当りはの防波堤となっていた。その下の霞む桟橋に、小さな舟の影がちらほら散見する程度だった。